堀浩哉 回顧展 Kosai Hori Retrospective
会期|2月13日(土)~ 3月6日(土)11時~19時 (日・月曜 定休)
会場|√K Contemporary(ルートKコンテンポラリー)
主催|√K Contemporary
協力|ミヅマアートギャラリー
【会期中のご来場について】
新型コロナ感染拡大防止対策のため、入り口にて検温・消毒・マスク着用へのご協力をお願いいたします。また、会場内の状況により入場制限をさせていただく場合がございます。何卒ご理解、ご協力を賜りますようお願いいたします。また、コロナウイルス感染拡大状況により、開催内容が変更となる可能性がございます。何卒ご了承ください。
70年代から様々な表現方法を自己に落し込み、まさに自由な発想でその時代の芸術活動を牽引してきた堀浩哉。本展は、PARTⅠ(初期から中期の絵画)とPARTⅡ(2015年以降の近作絵画)との2セクションで構成される展示会となり、初期から近作まで、堀浩哉作品の変遷をお楽しみいただけます。また、本展では国内外で多くの作品を発表してきた同氏の国内未発表作品も出展いたします。
さらに、本展は新作展や、インスタレーション作品展との連動開催。様々な芸術活動を行ってきた堀浩哉という美術家を包括的にご覧いただける初の試みとなっています。
一見センセーショナルな画面に対峙すると、全魂を込めた叫びに近い線と線の重なりが念仏を唱えるかのような幾重もの線で封印され、張り詰めた静けさだけが現れます。その時々で表情の変化はあるものの発する気迫は薄れることなく芸術へと昇華しています。氏がひたすらに向き合ってきた「絵画」という体系を本展でご覧ください。
― PART I | 初期から中期の絵画-1978~1991年
「1960年代の「前衛の時代」、反芸術、ミニマリズム、概念芸術を経て、70年代を出発点とするぼくらは芸術をゼロ地点から見直し、組み立て直すことを強いられた。ぼくもまた、パフォーマンスやインスタレーションを繰り返しながら、そこからの視点で絵画への契機を見出そうとしていた。・・・たどり着いたのが1980年発表の「エリゼの肖像へ」シリーズ(兵庫県立美術館蔵など)であり、今回の展示はその中の1点。
それから1984年には「絵画」でベネチアビエンナーレに参加するなど、ひたすら絵画のみに専念していた時期の一端を、ここに展示している。」(堀浩哉)
― PART II |近作絵画-2015~2019年(滅びと再生の庭)
「そこはなんとも不思議な植物園だった。
世界の各地から、様々な植物の種や株を持ち込み、植え込んでいった。そのほとんどは根付かず滅びてしまう。しかし中には環境に適合し、あるいは先住の同種と交配しハイブリッドとして生き延びるものもいる。そうやって分類を無視して生存競争にまかせながら、それでいてとてつもなく官能的でもある植物園。・・・妻がJに『ここは滅びと再生の庭ね』と言った。Jは一瞬とまどったけれど、『ああそれはいい言葉だ』とうなずき、さらに『コウサイがここでドローイングを繰り返しているのも、まさに滅びと再生の行為だね』と言った。」(堀浩哉)
【堀浩哉 連動企画展も同時期に開催!】
本展と時期を同じくして、ミヅマアートギャラリーにて新作展「触れながら開いて」、そしてSpace√Kでは「堀浩哉+堀えりぜ」のインスタレーション作品「記憶するために―わたしはだれ?」が開催されます。絵画作品の回顧展と新作展、そしてインスタレーションという、多様な表現をしてきた美術家、堀浩哉の半世紀を超える芸術活動を包括的にご覧いただける貴重な機会となります。本展とあわせて、ぜひご覧ください。
尚、新作展の詳細につきましては、ミヅマアートギャラリーまでお問合せください。
― 堀浩哉+堀えりぜ インスタレーション「記憶するために―わたしはだれ?」
会期|2月13日(土)~ 3月26日(金)
会場|Space√K (新宿区南町6 √K Contemporary B1F)
入場料|800円(収益の一部は東日本大震災復興支援活動支援に寄付いたします)
主催|一般社団法人 日本美術継承協会
協力|原爆の図 丸木美術館、ミヅマアートギャラリー、SEI-RIN
技術協力|金子智太郎、田中啓介
― 堀浩哉 新作展「触れながら開いて」
会期| 2月24日(水)~ 3月27日(土)12:00 – 18:00(予約制)
会場| ミヅマアートギャラリー
Address: 東京都新宿区市谷田町3-13 神楽ビル2F
Tel: 03-3268-2500
URL: https://mizuma-art.co.jp/
IMAGES
ARTISTS
多摩美術大学入学と同年の1967年、仲間を募って「自己埋葬儀式 」というパフォーマンスを行い 、美術家としての活動を開始。さらに、60年代末には学生運動にも参加し、その中から美術の制度性を問い直す「美術家共闘会議 (美共闘)」という運動体を立ち上げ、その議長としても活動した。初期の作品は、そうした運動と重なりながら制作されたものであり、制作そのものの根拠を問うような作品。それはモダニズム絵画の限界を突破するために、絵画の歴史を遡りながらその起源 を探る過程でもあった。 次いで堀はその起源から出発して、この東洋で、そして日本で絵画が生成する過程を辿りながら、自らの絵画空間を構築してきた。一方で「今 、ここ」での社会と美術の「境界線上」で生成する様々な問題や事象と共鳴しながら、それをインスタレーションやパフォーマンスとして精力的に展開。1977年パリビエンナーレ、1984年ベニスビエンナーレなど数多くの国際展にも出品してきている。
(ミヅマアートギャラリーHPより転載)
多摩美術大学入学と同年の1967年、仲間を募って「自己埋葬儀式 」というパフォーマンスを行い 、美術家としての活動を開始。さらに、60年代末には学生運動にも参加し、その中から美術の制度性を問い直す「美術家共闘会議 (美共闘)」という運動体を立ち上げ、その議長としても活動した。初期の作品は、そうした運動と重なりながら制作されたものであり、制作そのものの根拠を問うような作品。それはモダニズム絵画の限界を突破するために、絵画の歴史を遡りながらその起源 を探る過程でもあった。 次いで堀はその起源から出発して、この東洋で、そして日本で絵画が生成する過程を辿りながら、自らの絵画空間を構築してきた。一方で「今 、ここ」での社会と美術の「境界線上」で生成する様々な問題や事象と共鳴しながら、それをインスタレーションやパフォーマンスとして精力的に展開。1977年パリビエンナーレ、1984年ベニスビエンナーレなど数多くの国際展にも出品してきている。
(ミヅマアートギャラリーHPより転載)